お医者さんから造語とお聞ききしました。死贈与という言葉、亡くなった方からの贈り物、遺産ではありません。まあ、遺産を貰う人もいるでしょうが、生きて行く上での大きな学びを得ることです。私はたくさん、たくさんいただき、人生に活かしています。亡くなる人や亡くなった人を深く考えるからなのでしょうか。または、人は最後に伝えたい事があり、それをキャッチしているのかもしれません。

私には娘がいます。中学生の頃不登校だったり、東北の短期大学では、身も心もボロボロになり帰ってきました。なかなか自宅から出れません。いい年なのに、フリーター、準引きこもり・・・?。親はこれから先に生きて行くことをどうするのか問います。いつまでも親のすねをかじるのではないと毎日が叱咤激励状態です。

ある日、突然、44歳で亡くなった母親の事を考え、自分の産んだ子どもと過ごした時は短かった事に気が付きます。ああ、自分は子に外へ行け、自分で自活しろと言い続けていますが、母の事を考えると、子といる時間が長いことが必要であるのではないかとふと浮かびます。親子の時間が短かった母が、親子で側にいる時間を長くしなよと言ってくれているような気になりました。そう考えると気持ちが変わり、日々の叱咤がなくなりました。2人だけですが、楽しい、明るい我が家となりましたよ。

この閃きは、高知との往復の時に閃いたのです。長時間の通勤ですがこれも必要です。人類史を紐解いても、動かない民族は滅びる、動く民族が生き残ってきてます。動く事が愛です。