3日間通った「看取り学」でした。過去にお見送りをした方々をたくさん思い出す経験ともなり、後悔とか反省とはありませんが、ああそういう事だったんだという、納得できた講座でした。看護師となり、父を病院で看取り、自分が建てた家に連れて帰ってあげたかったという気持ちから、在宅へと導かれました。今だったらシステムやいろいろなことが考えられるのでできますが、当時、父は末期がんで2年以上も入院していました。それがまかり通っていた時代です。時代によって死は考え方が違ってきます。父の死からこれからこの看取っていくことを生業にしていこうと28年ぶりに開眼しました。今がその時なんですね。

講師の先生は自死につても教えてくれ、自死した人の顔の綺麗さもなぜだかわかりました。WHOが残された家族がその後に精神がまいってしまい病気になることの病名がつくことを認めたとも聞きました。自死したからこそ、その看取り士の作法(行為を作法と言います)が大事だとよくわかります。

講義で、死へ向かう人への援助も大事ですが、ふと死が中心となっている、人間は生きることが大前提です。そこが少し違和している感じです。なんだか死のみに引っ張られているような・・・。いえもちろん見取りの勉強ですので当たり前なのですが、違和することは死に向かって進むのではなく、生きることに向かおうよ!この違いは大きいです。さて、本部岡山に行って、会長さんになぜかお会いしたくて、会いにいきまぁ~す。即行動が6感が働くとお聞きもしました。私は、もう実践しています(笑)。帰りに、インターの近くにあった多賀神社に、みなが幸せであるようお祈りしました。