入院中の癌のターミナルの方がいます。一人暮らしで、親戚ともあまり付き合いがないようで、ヘルパーに支えられて生活していました。もう何年もの付き合いで、自分は出会ったなら最後まで面倒を看ると決めていますので、ほぼ毎日お見舞いに行きます。

患者はわがままとは分かっていますが、いろいろと自分には不可能な用事を言います。最初の内は感謝のことばもあり、自分も先がないからと動いていましたが、もう言っていることも忘れて、看護師が当てにならない、半殺し、ご飯が来ない買ってきてと言います。言い出したら聞きません、2日前は、眠り薬を電話で甥に必死で頼んで疲れ切ってそのまま眠ってしまいました。甥御さんが面会に来たか聞きましたら来ていないようで、本日も甥に電話して来てほしいと頼むと言います。ついと、来ない甥に頼んでも向こうも困るよと言いましたが、自分も困ると言います。自分の生き方が招いた結果がこの状況ですよ、○○さん身内だったら私も聞き入れることもあるけど、とついと言いました。後、宗教の熱心な信者さんで元気な頃から説教され、一緒に行こうといつも誘われていました。甥御さんはその宗教の事務をしていた方と聞いています。そんないい宗教なら亡くなる叔母さんの元へ来てもいいのではないか、そして、この宗教は助けにはならないと痛感します。人格が破壊のようです。宗教の教義で自分の身を受け入れ死に向かうことができないのか、こんなに熱心にやってきて、宗教関係者の人の援助はないのかさえ考えてしまいます。これはいつも体験することです。宗教では困っている時助けにはなりません。

正直、行きたくないという気持ちがあります。何の義務も、約束もないのです。しかし、ここで辞めると一生の悔いが残ると義務感のみで病院へ行っています。昨日は、帰ると言いうと「いやや、ここに居っといて・・」仕事も残っていますし、イライラ状態の私です・・・。何度かのやり取りで「明日必ず来るから。」と言うとうなずきました。この必ずが欲しかったのです。

このままではお見舞いに行けないと深く考えました。自分自身の包容力のなさを痛感します。過去の様々な末期の方との体験を思いだしますが、過去の経験がなにひとつ活きていない自分も返りみます。人生の最後の最後を向かえるいのちです。考え分かった言葉は「他人事として見ている状態、いのちひとつ、身の内のこととする。」相手も自分もない状態を目指します。人間の勉強です。今日も、明日も、明後日も、生きている限りお見舞いに向かいます。いのちの内はそうですから・・・。