友人の自宅に来ています。朝、保育園に行くお孫さんと遊びました。子どもは大好きです。何で好きか?、純粋な存在であることが好きな理由のひとつです。大人はいろいろが多すぎ・・・自分も含めてです。そのまま、いのちのままに、子どものように純粋に生きたいと望んでいます。

昨夜もいだきしんピアノコンサートが開催されました。一言で愛の爆弾が投げ込まれたような体感です。それも一発でなく数十発もです。主催者である高麗恵子さんはウイグル自治区の人をお呼びし、参加されていました。内的環境が外的環境を作るというコンサートです。ウイグルも大変な状況下であり、一人の人が愛を体感したら連鎖ははじまります。とても感動されていた様子でした。世界中が大変です。
自覚をもって日々生きていきます。自分のことで精いっぱいは止めです。他人事にはしておけません。

気になっている言葉を考えています。「特別養護老人ホームで見た利用者さんを可哀そうと思い、この介護の仕事をはじめた」とスタッフのNが言いました。この言葉に違和感があり考えています。自分は可哀そうとはあまり感じたことありません。この状況を変えなければいけない・・・というふうに考えていきます。友人の子は障害者です。「この子たちは可哀そうなんです。」と介護のスタッフから聞いた言葉に、ずっと怒っていました。可哀そうというのは上から目線だよと言います。そうです、可哀そうではなく、そのど真ん中に入り何をやっていくかです。Nは自分の都合で仕事してたのが良くわかりました。可哀そうと思う上から目線でやってあげているということで動いています。ここが大きな介護に対しての見解の相違です。ご利用さんの誇り高き精神を支えていきたい、いえ、ともに寄り添って自己実現です。可哀そうなのは自分自身かもしれません。白黒つけないと、皆が幸せの道をすすめません。決断の時です。